本文へスキップ

東京都個人タクシー協同組合 荒川支部では、安全確実迅速をモットーにお客様のご要望にお応えして参ります。

TEL. 03-3802-6226

〒116-0013 東京都荒川区西日暮里5−2−19







荒川支部の歴史DESCRIPTION based on LAW

 

荒川支部 の 誕 生

 

終戦後の日本の経済は敗戦のショックと人々の自信の喪失でほとんど行き詰まっていた。国内では不況が続き一種の恐慌状態に陥っていた。中小企業は次々と倒産してゆき、これに行政や企業の人員整理が重なって失業者が溢れていた。
   
 昭和25625日朝鮮戦争が勃発した。その後、昭和28727日に板門店で休戦協定が結ばれるまでの約3年に及び日本経済は朝鮮戦争特需に湧いたのである。占領下の日本はアメリカ軍の朝鮮半島への出撃基地となり、朝鮮半島へ出兵したアメリカ軍への補給物資の支援や破壊した戦車、戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負い、その結果日本経済は大幅な拡大を見せ、敗戦後どん底にあった経済が息を吹き返したのである。
 この特需に救われた企業も多かった。例えば昭和25年の春、トヨタ自動車工業は倒産寸前の状況にあった。不況で自動車は売れず、給与未払いなどが続いた揚げ句、3割の人員整理方針が出されて、4月以来ストライキが3ヶ月にわたって続いていたが、朝鮮特需によって米軍から軍用トラックの大量発注が舞い込み、その後の1年間で戦後初めて株主配当が出るまでに回復、奇跡的な再建を遂げたのである。こうした再建はトヨタに限らず、他の多くの産業と共に自動車産業全体が軍用トラックなどの生産で好況に転じていったのである。
 板門店休戦協定後は戦争特需の経済は影をひそめ、緊縮予算で産業界は不況に見舞われ多くの企業が倒産し巷には失業者が溢れた。その失業者がタクシー運転手としてタクシー業界に参入していったのである。国民の財布が寂しかったこの時代はタクシー業界も例外ではなかった。特需の時のタクシー会社の乱立と不況は過酷なノルマで乗務する運転手の給料遅配、欠配にしわ寄せされ「神風タクシー」と揶揄されるなど、タクシー運転者の無謀運転が社会問題になった。神風タクシーは戦前の雲助タクシーに匹敵する戦後のタクシーに対する汚名でもあった。
 当時の新聞に「タクシー会社は火の車」という見出しで運賃ダンピングや相乗りなど、苦し紛れの営業ぶりが報道されている。業界は苦境打開のため、当局に新規免許と増車を停止による「需給調整を要望」し、自主的増車禁止を申し合わせ、不当競争を避けることに努力した。
 当局は自動車運送協議会に、タクシー輸送需給の適正な調整に関する諮問をした。
東京での増車制限措置は、昭和301027日から実施となった。それ以降4年間にわたるタクシー業界の需給調整として、新免と増車をストップの行政措置がとられた。
   
 特需崩壊後の緊縮予算で産業は元気がなく、全てはデフレのせいだと諦めムードがただよっていた。しかし、昭和3012月頃からにわかに好景気が訪れる。
 海運景気などによる造船ブーム、鉄鋼、自動車、電機、カメラ、時計、合成繊維など戦10を経て技術的な進歩を遂げ本格的な成長へと階段を登り始める。鐵は国なり、造船は経済の牽引車といわれた時代であった。この好景気により日本の経済は、第2次世界大戦前の水準まで回復。銀座には、まばゆいほどのネオンや広告塔が林立し、アドバルーンが多い日には100本も上がったといわれている。
 これが「神武景気」の始まりである。神武とは建国神話に登場する神武天皇のことで、建国以来初めてというほどの好景気という意味で命名された。
タクシー業界は新免及び増車の需給調整と神武景気と相まって息を吹き返してきた。当時のタクシー業界は運転手と雑巾は絞るだけ絞れといって、運転手に過酷なノルマを課して建て直しを図り、高値でナンバー権が売買されるほど回復していった。しかし反面、運転手の側ではノルマ以下の下車勤運転手があぶれ、失業運転手の中から白タクが発生し、現職運転手の方は「神風タクシー」を生んだ。
この時期、石原慎太郎東京都知事は大学生の時に「太陽の季節」を発表し芥川賞を受賞する。そして太陽族、慎太郎刈りが流行語となった。経済白書は、もはや戦後ではないと報告している。
昭和32年、この年の夏から翌年の秋にかけては、30年に始まった神武景気の反動による不況が続いた。岸内閣になると各企業の設備投資、生産拡大による資材、原料の輸入が輸出を上回って外国為替勘定が赤字となり、政府は国際収支改善のため、輸入制限や公定歩合の引き上げ、金融引き締めなどの対策を施したので景気は徐々に不況化し「ナベ底不況」と名付けられた。
設備投資の急増と旺盛な消費に支えられた神武景気は急速に景気が冷え込んだ。国際競争力のない日本企業にとって、好況時の設備過剰による在庫の急増は大打撃、体力のない中小企業の倒産が続出し自殺者が急増、後に第1次自殺ブームと呼ばれるほど深刻な社会問題となった。
 
タクシー業界は「ナベ底景気」の不況の波をもろに受け運転手を直撃した。1日に500キロから600キロを走り回り、一晩中一睡もせず、時たま車内で仮眠する程度で、少ない客を求めて街から街へ一生懸命流して、やっと客を見付けても料金を値切られるのは当たり前で、銀座や新橋で乗せた遠距離客は、メーター料金の半額ぐらいで行かざるを得ないこともしばしばであった。

 この劣悪な労働条件と、そのすさまじい走り方による交通事故の増加に、世間は神風特攻隊をもじって「神風タクシー」と呼び、タクシー業界に非難を浴びせた。
 昭和331月東大赤門付近で、東大生がタクシーにはねられて死亡する事故が起きた。
   
「神風タクシーによる被害第1号」として新聞各紙に報道され国民の関心を大きく呼んだ。  

 特に朝日新聞は交通戦争始まるとして「タクシー会社は儲けすぎ、運転手は犠牲者である」と批判キャンペーンを張って世論を盛り上げた。交通戦争の幕開けとなったのである。
 神風タクシー問題が国会でも取り上げられ、内閣も神風対策に乗りだし、規制の法律を定める方向に動いた。
交通対策本部は、昭和3341日、タクシー事故防止対策要綱を決定し、運輸省と労働省に指示した。
 その要旨は「交通規制、道路整備等種々考えられるが、さしあたり緊急措置として運転者の労務状況を改善しなければ、事故防止の目的達成は困難である」とし、要旨は
@ 給与制度の合理化、固定給を増額するとともに著しく刺激的な歩合給を排除すること。
A 労働時間の適正化、走行距離の適正化、輸送安全を確保するため適正な走行距離の標準を決定する。
B 下車勤務の制限。
C 休養施設の整備。
D 運転者の指導監督。
E 運転者の雇用は日雇い形式による運転者の雇用を撤廃し、仮採用制度の悪用を排除する。
F タクシー事業の免許条件等についても交通事故防止の観点から充分検討する、であった。
これを受けて、労働省労働基準局長から
@ 昼夜交代制の場合には1勤務16時間以内とする。
A 休日制度、年次有給休暇制度を確立する。
B 割増賃金、安全衛生等に配慮し実行する、ことなどを内容とする通達が出された。
 続いて東京のタクシーの1乗務最高走行距離は、警視庁が320キロメートルを、業者代表は380キロメートルを要望したが、覚えやすいように「1365日」と同じ365キロメートルに決定、815日から実施された。
昭和3337日、衆議院運輸委員会で、岸第2次内閣の運輸大臣は、その対策の中で「同じ会社で、10年、20年と真面目に務めている運転者に、1台持ちの営業を行わせることを研究している」と述べ、この発言が動機となってハイタク需給調整による新免抑制から、供給輸送力増強並びに個人タクシー導入を望む声が高まった。
 1台持ち個人タクシー運動は、大臣の発言前から神戸市を始めとして大阪、 東京と全国的に、静かではある30頃から拡がりを見せていた。この運輸大臣の発言で個人タクシー導入を望む声が一挙に高まり現実味をおびてきたのである。
 

しかし、運輸大臣は在任中、個人タクシーの「個」の字も発言していない。このことは楢橋大臣が個人タクシー免許の英断を下すに至った経過について、翼書院から出版された著書「激流に棹さして」の中で、当時様々な政治的圧力と妨害があったことを書き述べている。この小史「あゆみ」の中で一部を抜粋して、20周年記念の「あゆみ」に当時、本部の副理事長を務めた、当支部出身の小嶋氏が「個人タクシー誕生秘話」を書き残しているので是非一読願いたい。これを読めば運輸大臣が政界首脳の反対を押し切れなかったことがわかる。
 昭和346月、岸内閣第2次の大幅な内閣改造があり、楢橋渡氏が運輸大臣として入閣した。大臣はさっそく個人タクシー問題を取り上げ、巷に悪評さんざんのタクシー業界に新風を、そして神風タクシーを撲滅するとして、同年7月に「永年にわたり無事故無違反の優良運転者に夢を与え、業界に新風を送るためタクシー個人営業を許可する」との大臣声明をだし、個人営業の道を開いた。
 強力な世論に後押しされ、楢橋運輸大臣の大英断で個人タクシーは誕生するのである。
同年811日、申請書を910日までに提出することを公示、併せて楢橋運輸大臣は優秀適格者に対し、個人タクシー事業免許を与える旨の声明文を発表した。
 「大都市におけるタクシーの個人営業についての世論は最近特に高まり、大きな関心を示しており、先に、東京においては東京陸運局の自動車運送協議会からも意見が提出されている。運輸省においては、この問題に関してその利害損得を慎重に検討してきたものであるが、予想されるべき弊害を除去する方途を講じ、優秀者に対し、11車制の個人タクシー事業の免許を与え業界に新風を注入することが妥当であるとの結論に達した」との要旨である。
 ここに社会問題となっている神風タクシーや白タクを撲滅し、長年運転手をしてきた者達に夢を与え、タクシー業界に新風を吹き込み、利用者が安心して乗れる方策として、運輸大臣の政治的決断により、個人タクシーがついに実現するのである。  続いて910日付けで「大都市におけるタクシーの個人(11車制)に関する免許基準の適用について」及び122日付け「個人タクシー営業(11車制)の取扱いに付いて」が自動車局長から通達された。この時の個人タクシー免許条件には、次のような厳しい付帯条件が付されていた。
@ 必ず自分で営業し、他人を雇って運転させてはならない。
A 自動車損害賠償責任保険(強制加入)のほか、最低40万円以上の自動車損害保険にも加入し、最低70万円の賠償能力を持つこと。
B 車体の両側及び防犯灯に「個人」と明記すること。
  
C 車体の見やすい所に、陸運局長の検印を受けた写真入りの証明書を表示する。
D 免許の期限は3年とするが責任事故を起こさない限り更新する。
E 原則として譲渡は禁止する。
F 制限走行距離は2日間で365キロメート以内、料金は現行と同一とする。
 免許基準の中で優先されている優マークの制度は、昭和30年警視庁がタクシーの公共性と交通事故の防止を図り、不良運転者には厳罰主義でのぞむ反面、優良運転者に希望と誇りを持たせ、客へのサービスと事故防止に役立てようと実施した制度で、同年727日に、3年以上無事故無違反の都内タクシー優良運転者642人に表彰状、バッチ、車内掲示用掲示板が与えられたのが最初であった。
 昭和34123日、第1次免許者は6,630名の中から173名と一般にいわれているが、実際には書類審査などで第1回聴聞を受けた、1,061人の中から173名が合格した。申請者は営業拠点や運転資金が確保されていること、人柄、教養、心身の健康、遵法精神等に重きを置いて審査され、6人に1人という狭き門となった。同年125日、当時四谷にあった東京陸運事務所で免許状の交付式が行われた。
 開業第1号は同年1215日、「いの1番」といわれる「い001」のナンバーを付けた市川タクシーが、多くの報道陣に囲まれて楢橋運輸大臣と岸自動車運送協議会会長を乗せ、東京駅八重洲口を出発し周辺をひと回りした。これは一種のセレモニーで新聞により記事と写真が大きく報道された。
 1号の乗客となる楢橋運輸大臣の個人タクシーに対する期待度を示し、世論もまた同様に歓迎した。
 173名の内、12月中に開業したのは半数位で、いずれも営業初日は赤飯を炊いて門出を祝ったといわれる。各事業者は最初の乗客には門出にふさわしい、知人やあらかじめ頼んであった人達を乗せてテープカットを行ったといわれている。
 これらの免許者は運輸当局に確固たる指導方針がないまま街に出されたので、営業日報、業務報告等手探り状態であった。 ことあるごとに関係当局に尋ねる以外、頼るべき所がなかった。
 組織づくりが始まるのは第3次免許者が出てからで、警視庁が運輸当局より先駆けて昭和357月、交通部長名で各警察署に「署単位に個人タクシー事業者の組織化を進め、事業者を把握するよう」通達した。この通達は交通安全の絡みなど、警察行政上の指導を目的にしたといわれている。
 そのため、警察署の名称を冠にした組合や団体が多くできたのは、この通達に依るものだったといわれている。事実、当会も総会や支部会を尾久警察署の講堂や別館で数多く開催している。後に尾久警察署を定年退官した警察官、佐藤利吉氏を職員として採用し事務長に起用している。それだけ警察署とも関係が深かったことが伺われる。

 これを機会に都内各所に、個人タクシーの協会及び組織結成の動きが始まる。
 同年7月、大沢徳松氏宅に鈴木富博、小嶋巳之助、萩原八十市、三浦庄三郎の5氏が会合し、個人タクシーの協会結成について話し合いが持たれ、まず手近な尾久、町屋地区を固めるべく、この地区に居住する下記の9名に対して8月初めに招請状が出される。招請状が出されたのは大貫安太郎、保坂正光、佐藤和次郎、柴田昌彦、木村勘二、河合猶英、霜興三、鈴木禎、島田正太郎の各氏であった。
 同年87日の招請日により集合したのは、次の8人で集合場所は三浦庄三郎宅で大沢徳松、鈴木富博、小嶋巳之助、萩原八十市、大貫安太郎、柴田昌彦、鈴木禎の各氏であった。
 この席は事実上荒川区に於ける最初の個人タクシー協会結成準備の性格を持ち、いろいろ協議されたなかで、会の名称を尾久個人タクシー親睦会と呼称することが決定される。有志の働きにより、尾久個人タクシー親睦会という組織が生まれ、団体である以上事務所が必要であり、とりあえず大沢徳松宅に置くことに決定する。更に次の会合を815日、荒川温泉で開催することとし、この日を尾久個人タクシー親睦会の創立日と定めて散会した。
 前回の決定通り、荒川温泉で午前10時より会合が持たれ参集した人達は大沢徳松、鈴木富博、小嶋巳之助、萩原八十市、三浦庄三郎、大貫安太郎、保坂正光、佐藤和次郎、柴田昌彦、木村勘二、河合猶英、霜興三、鈴木禎の以上13名の各氏で、島田正太郎氏は住所の関係で他に移り入会しなかった。
 昭和35815日が上記、13名の各氏を以て尾久個人タクシー親睦会としての正式に結成された日で、今日の荒川支部が声高らかに呱々の声をあげ、これを宣言した日であった。
 続いて911日大沢タクシー宅に於いて、尾久個人タクシー親睦会の第1回定期総会が開催される。この時の出席者は大沢徳松、鈴木富博、小嶋巳之助、萩原八十市、三浦正三郎、大貫安太郎、保坂正光、佐藤和次郎、木村勘二、河合猶英、鈴木禎、各氏の11名で、霜興三、柴田昌彦の両氏は委任欠席された。
組織として親睦会の基礎を固め、運営を軌道に乗せ、今後一層の飛躍と発展を期するため、ここで役員、会費、会則等が審議されるなど重要な決議がなされている。
 役員は選挙ではなく事業者相互の推薦で次の通り選出された。

  会 長 鈴木 富博氏  副会長 萩原八十市氏
  会 計 三浦庄三郎氏  監 事 大沢 徳松氏  小嶋巳之助氏

この日が組織活動の第一歩が踏み出された記念すべき日であり、この定期総会に於いて今後、毎月第2日曜日を定例総会(支部会)と定め、全員が出席するという重要な決議がなされた。この定例総会(支部会)は創立以来25年間にわたり続けられた。
 
 この定期総会に於いて、会費の徴収が決定される。会費は月「200円」とし、毎月第2日曜日の定例総会(支部会)の時に納入することが決議される。又、会則も審議されているが現在組合事務所には保存されていない。
 この総会時に、各自がそれぞれ経理事務所に依頼していた、経理処理を西会計事務所に統一依頼しており、西会計事務所とはその後50年にわたりお付き合いをしている。
 1回定期総会終了後、関係者や婦人を迎え、荒川温泉に於いて、尾久個人タクシー親睦会の創立祝賀会が盛大に開催された。
 遅れて同年923日付けで東京陸運局長から東京陸運事務所長に「個人タクシーは団体の組織化が適切であるから、警察とも連絡をとって組織化の指導をされたい」という通達がでた。これは一行政区に一組合をつくる趣旨といわれたが、実際には具体的な指導もなく、事業者自身による自主的な組織作りにならざるを得なかった。
 これまでに都内の個人タクシー業界は大小の協会が乱立し、戦国時代の群雄、勢力拡大の様相を呈し、大同団結、窓口一本化の方向が東京陸運事務所より要望される。この時すでに荒川区内には3つの団体ができていた。
 同年104日陸運事務所は、都内にできたこれら27団体の役員を招請、各組合はこれに応じ連合会結成に動いた。
 昭和36年早々「東京個人タクシー連合会組織準備委員会」の名で準備が進められ、当会もこの上部団体に加入する。
 同年620日、個人タクシー連合会が発足、東京の加入事業者は2,000人を超えたといわれる。しかし発足までには、すさまじい派閥抗争があったといわれ、代議員数を問題にしたかと思うと理事数で粉砕し、それが落ち着いたかと思うと会費が問題になり、執行部の数が決まれば候補者の人選で大紛争するという始末だったといわれる。
 連合会発足後も加入したかと思うと脱退、除名と離反、集散を繰り返し、集会ではヤジと怒号が飛び交い、小競り合いまで起きる派閥抗争は相変わらず続いたといわれる。こうした群雄割拠の状況は役員ポストの争いで、人事の不満に強く根ざす感情の対立であり、選ばれた個人タクシー事業者像とはあまりにもかけ離れたものだった。この時、東京の個人タクシー団体は東個協、連合協、新東個連、都個連の4組織に分裂している。後に連合協の各協会は東個協の支部となり、新東個連と都個連は、反東個協として日本個人タクシー連合会を形成し、防犯灯を統一していくのである。
 事業者の数も少なく小さな団体であった当会は、ただただ静観するのみであったといわれている。そのため当会は当時の状況を深く洞察、種々検討の結果、どの上部団体にも加入せず独立協会としての道を進んでいったのである。
 
  第1回定期総会以来、日を重ねるごとに事業者の数が多くなり事務所も手狭となる、事務所を荒川区東尾久2-118の鈴木富博会長宅に移転、事業者の事務処理を会長婦人が担当した。その時の婦人は無報酬であったといわれている。
 事務所となれば事業者や関係団体等の連絡用に電話が必要であり電話が入った。それに要した費用は166,140円、現在事務所で使われている電話がそれである。時に昭和3641日であった。
 日暮里、南千住など尾久、町屋以外の荒川区内から事業者が加入、尾久個人タクシー親睦会では実状に相応しないので尾久が削除され、荒川区個人タクシー協和会と改称されている。昭和36910日、第2回定期総会に於いて尾久個人タクシー親睦会から荒川区個人タクシー協和会に名称が変更された。この時に荒川区個人タクシー納税貯蓄組合に加入している。
 昭和37117日、定例総会(支部会)に於いて会費を値上げし「500円」に増額、新たに共済費「200円」を徴収することが決定されている。
 125日、荒川区個人タクシー協和会の生みの親の1人ともいうべき会の創立に功績のあった1人、河合猶英氏が突然逝去された。協和会にとって誠に悲しみの極みであった。協和会から香典30,000円、生花一対4,000円、供物1,500円、花環一基2,000円を贈り故人の冥福を祈った。協和会発足初の死亡廃業者となる。尚、この時の大卒初任給は18,800円だった。
 昭和3911日から、タクシー運賃が11年ぶりに中型車80円から100円に値上げされる。それまでタクシー運賃は政府の物価抑制策で長い間、据え置かれたままだった。この年10に日本初の東京オリンピックを控え。当局は、日本のタクシーはチップを貰わない、請求しない「ノーチップ制」を強く指導し、「タクシーは民間外交の代表選手」といって法人、個人共にタクシーをオリンピック増車として大量に増強した。
 同年51日、オリンピック増車により、当会も事業者56名になるも、鈴木会長宅と併用の事務所は権利金更新となり、町会長所有の建物との権利金問題で話し合いがつかず荒川遊園地そばの事業者、加藤止氏宅の一部を改装して事務所を移転する。同時に尾久警察署を定年退官した、佐藤利吉氏を初めて専用職員として採用した。
 同年913日、第5回定期総会に於いて、当会発足以来4期にわたり会長を務めてきた、鈴木富博氏が譲渡を出すこととなり会長を退任、役員改選選挙がおこなわれ、第2代目会長に大沢徳松氏が選出される。副会長には萩原八十市氏が留任する。
 昭和4063日、当会創立以来4年間にわたり会長を務め、当会育成のために尽力された鈴木富博氏が譲渡廃業となり協和会を去ることとなった。
この功績に対し感謝状を贈り当会の感謝の意を深く表した。譲渡後まもなく鈴木氏は体調をくずし、悠久の地に旅立たれたのである。誠に残念であり哀惜の念一入であった。
 
  同年817日、自動車運送協議会から、個人タクシーの組織は損害賠償の強制保険以外何らかの保証制度が必要であり、一定の保証制度を有する団体への加入、あるいはそのような組織の結成について強力に指導する必要があるとの答申が出された。
 同年99日、第6回定期総会に於いて、保険制度に関する答申を事業者に説明、事業者全員にアンケート調査をおこない、種々検討の結果、保証制度のある東個協に加入することが妥当であると決議される。
 同年12月1日付けで、任意保険を締結していない、大沢徳松会長を含む40名が先発として東個協に加入していった。正式加盟は翌年5月の東個協の通常総会で決議されることになるが、121日時点の名称を仮称とし、東京都個人タクシー協同組合・荒川支部と呼称することが決定し、会長を支部長と呼ぶことが決議される。
 昭和415月、東個協の第3回通常総会で荒川区個人タクシー協和会の加盟が正式に承認され、正式名称を東京都個人タクシー協同組合・荒川支部と呼称することとなる。この時の事業者は63名であった。この通常総会に荒川支部は本部理事候補に大沢支部長を送り、共済担当理事となる。
 同年911日第7回定期総会が東個協・荒川支部となってから初めて開催され、本部から初代理事長・吉岡武夫氏が来賓として出席した。
 この総会で、東個協・荒川支部になったため、翌年から総会を9月から4月に開催することが決議される。ここに荒川支部が正式に誕生したのである。
 今日、ここに50周年記念式典に当たり、尾久個人タクシー親睦会、荒川区個人タクシー協和会として発足以来、東個協・荒川支部に至る道のりを簡単に書き述べてまいりましたが、ここに至る道のりは苦難、困難の連続でした。先輩諸氏の将来を見据えた英知と勇気ある決断のもと「和親・団結・協調」を支部創立以来の3本の柱として今日、東個協の中核をなす確固たる地位を築き挙げて参りました。
しかしながら現在、個人タクシーを取り巻く環境は業界内外からの厳しい指摘を受けております。平成に入ると「玉石混交」「恣意的営業」といわれ、最近では個人タクシー不要論が公の場で公然と論議されております。 本来、個人タクシーはタクシー業界の浄化と正常化、そして業界に新風を送り、 優秀運転者に夢と希望を与える目的で出来た制度であります。 このことを考える時、事業者1人ひとりが事業免許の原点を肝に銘じて自覚と責任をもって一致団結し、利用者の信頼を得られるならば将来への展望は明るいものと確信しております。 この光輝ある荒川支部の伝統を引き継ぎ、 新しい世紀に向かって第一歩を踏み出すことは我々、支部員に課せられた使命がまことに重いことを痛感致します。

(協力執筆者 西出喜光 氏)


 

個人タクシー誕生秘話

 

昭和34123日戦後初めて、東京に173名の個人タクシー事業者が免許され、タクシー運転手に栄光と希望の灯が点じられた。個人タクシー史上、永久に忘れられない、記念すべき感激の日と言えよう。
 個人タクシー免許に関して当時はさまざまな政治的圧力と妨害がありながらも、ときの楢橋渡運輸大臣の英断によって免許になった。ここに楢橋渡元運輸大臣が発刊し戦後ベストセラーになった、『激流に棹さして』の著書を参考までに一部抜粋し掲載するので、個人タクシー事業者は免許の喜びを偲んで頂きたい。
  激流に棹さしての一節に
 「私はよく街を走るタクシーに乗った」。運転手は、日に1万円の水揚げがなければ会社の現場監督にいじめられる。車に乗せないと脅かされる。車に乗せられなかったら妻子を養うことができない。私も昔はタクシーの2,3台をもってタクシー業をやっていたが戦争のため、企業整理にかかり、今は哀れな一労働者である。「何とか個人にもタクシーは認められないものであろうか」と嘆くのを聞かされた。それが偶然にも私が運輸大臣となったのである。タクシーは運輸大臣の所管であった。私が大臣就任後、事務当局に個人タクシーを許そうと思うがどうかと聞いてみた。「大臣、着想はよいが、よされた方が良いでしょう、歴代の大臣が誰も手を付けないのは、タクシー業界の政治力が役所はもちろん、保守、革新を問わず、全面的に浸透していて下手をすると命取りになります。莫大な政治献金を受けている各政党はつまらぬ運転手のために動く筈がないから…」「然し社会党、民社党はどうだ、彼等は労働者の味方では無いのか」「いや、それがこのタクシーだけはだめですよ。社会党も民社党もタクシー資本家の味方であって、労働者の味方ではありません。それだから自民、社会、民社といえども、この問題には触れないのです」「ヨシ!歴代の大臣も逃げ、自民、社会、民社からも見捨てられている、哀れな運転手、しかも驚くべき労働の過重と搾取にあっている、タクシー運転手に光を与え、タクシー界に新風を吹き込むんだ」と決意し、突如として個人タクシーを許可する方針を新聞発表した。しかるに運輸事務当局も、各政党も共鳴どころか、そんな馬鹿な事は、止めてしまえとの空気である。ところが新聞が意外にも大きく取り上げた。

 私は自分の信念を関係閣僚に述べた、直ちにその方針に従って立案するよう命じた。猛烈な業者の反対運動が起こった。直ちに自民党のボス、大野副総裁と河野一郎氏から大臣と懇談したいから、院内の副総裁室へ来てもらいたいと申し入れがあった。きたなと私は早速出向いた。そうしたら彼等は私に向かって「大臣、個人タクシーは止めてもらいたい。タクシー業界から数億円を党に寄付している大スポンサーだ。これらの連中が絶対に止めてもらいたいと言ってきたから運転手なんかに味方して彼等の怒りに触れるようなことは政党政治の今日、党の有力者がなすべきことではない。だから党を代表して大臣に申し入れる」と私に中止するよう頼んだ。私は一言の下にはねのけた。

 個人タクシーは運輸行政として善政である。政治は万人のためにあるもので一部の業者のためにあるものではない。運転手も国民の1人であり、生きる権利、職業の自由を与えるべきである。党にとって、なるほど献金も大事であろう。然しそれより大事なことは、人間を人間として取り扱う政治が献金より先に優先して取り扱うべきである。

 副総裁や河野氏はご存じないかも知れぬが今、僕が大臣として調べたところによると、タクシー1台の権利は驚くなかれ3百万円を権利金として売買されている。10台3千万円、百台では3億円、千台で30億円、今度3千台を許可するから90億円、この驚く権利を既存の業者は、労せずして運輸省の許可によって獲得する事ができる。

 一官庁の許可が1台3百万円になる。そんな馬鹿げた事が平気で行われ自民党や社会党や民社党がこれらの業者から鼻くそのような献金を受けて、彼等をのさばらせることは、不肖楢橋渡は断じて許せぬ。

 タクシー1台が只になるように、個人に免許を与えて、積年の弊害を一掃する考えだ。それが政党政治の本領で無ければならぬ。

 だから折角の申し入れだが党の方針が間違っているから断る。党はすべからく僕の方針に従って個人タクシーに協力して貰いたい。今度は岸総裁に訴えたと見えて、岸首相から何かと中止できないかと電話があった。「私は、総理これだけは、絶対に聞けませんと断り、岸首相も再びこの問題には触れなかった」。

 私としては、今時これらの業者が自分で苦しかった運転手時代を思い起こして、自ら公共事業の第一線業者として、世の範をたれて、尊敬される指導を請い願ったのである。

 この3百万円の売買は政治の罪であり、需要供給のアンバランスから来ており、それは結局タクシー利用者の負担となることは自明の理である。

 ここに大きな政治の不毛地帯があり、悪の花咲く温床である。然かも帝都の真中を走っているタクシーの運転手には走れ走れで、ノルマにかけられる、心身をすりへらし、労働条件は悪く、退職手当はほとんどなく、労組も成長していない。一体ここに不可解なのは、労働者の味方として立党、社会党、民社党、共産党の態度であった。

彼等はタクシー運転手を擁護するどころか逆に国会の運輸委員会に私の列席を求めて個人タクシーに猛反対した。

以上、楢橋先生の『激流に棹さして』のご健筆の一節を記載し、個人タクシーの一部経過を記し、つきせぬ感謝の念が一杯になる。

 

 

創立20周年記念式典 あゆみより

元東個協・副理事長 小嶋巳之助

バナースペース

東京都個人タクシー協同組合 荒川支部

〒116-0013
東京都荒川区西日暮里5−2−19
リレント第二西日暮里ビル3階

TEL 03-3802-6226
FAX 03-3802-6229